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原田一宏                      フィールドからの写真
兵庫県立大学 環境人間学部 准教授
社会環境部門
環境共生社会コース
森林社会共生学研究室(E106)
専門:森林政策学、地域資源管理、ポリティカル・エコロジー、インドネシア地域研究
〒670-0092 姫路市新在家本町1-1-12
E-mail:harada@shse.u-hyogo.ac.jp
Skype: harada_kazuhiro
  
右から4人目
出身と生い立ち
1968年生まれ。小学校までは、京都府宇治市で過ごす。小学校の校庭で遊んでいると、たびたび光化学スモッグ注意報が発令された。その後、滋賀県滋賀郡(現:大津市)に引っ越す。滋賀での、山あり、湖あり、川ありという、とても恵まれた環境に驚いた。引っ越し当時は、琵琶湖に注ぐ川で、素手でのアユとりに夢中になっていた。しかし、環境が変化してきたのか次第にアユがとれなくなった。しかたなく、一本釣りに変わり、最後には親に購入してもらったマイ投網を投げてアユを捕っていた。そのおかげで、プロ仕込みの投網の技を習得することができ、投網は今でも数少ない得技の1つである。川の環境が汚染されるのを子供心に案じていたことを記憶している。また、週末には比良山系の山々を登りまくっていた。このような実体験が、環境や森林の研究をするという、今の進路に少なからず影響を及ぼしている。
今の研究に至る経緯
「私とインドネシアの森林との関わりは、東カリマンタンの熱帯林からはじまった。当時学生だった私は、熱帯林の破壊を食い止めるには、自然科学的アプローチで森林を再生あるいは、森林保全するための研究に従事するしかないという正義感に燃え、インドネシアの熱帯林研究プロジェクトを実施している研究室の門戸をたたいた。(中略)
 フィールドでは、自分の設定した試験地に毎日出かけて、暑いなか、朝から夕方まで、重い機械を背負って、植物の光合成や高度などを測定し、夜にはデータをコンピューターに入力するという単調な日々が続いた。インドネシアに長期滞在し、研究を進めていくうちに研究の要領もわかるようになり、植物の特性も把握できるようになっていった。それと同時に、日本の都会に育った私には、なかなか理解できない多くの問題が、インドネシアの地域社会に存在していることが次第にみえてきた。(中略)
 毎日の調査をするにあたっては、日雇い労働者や従業員の方々には大変お世話になったし、彼らの明るさは研究上の悩みをしばし忘れさせてくれた。とくに、私のアシスタントとして毎日フィールドに同行してもらい、測定のための実験機材を運んでくれた同世代のマスラーニ氏は、暑いなかこちらがお願いする通りに重い機材をもって何度も斜面を登ったり降りたりして、植物を測定する手伝いをしてくれた。彼には、せめて自分のやっていることをおおまかにでも伝えたかったし、彼が生きている世界のことも聞いてみたかったので、測定の合間にはまだ覚えたばかりのつたないインドネシア語で一生懸命に会話をした。多くの日雇い労働者が小学校卒業や中退という教育レベルにあるなか、仕事が非常にまじめな彼は、小学校の教員になりたいとう夢をもって小学校教員養成の専門学校を出たが、その夢を実現することはできなかった。「小学校の先生になろうと思って、教員免許までとったんだけど、給料が安くて食べていけないんだよね」。しかし、彼の表情には後悔の気持はみられなかった。教員になる素養を十分に備えている者が、どうしてこんなところで働いているのか。日本社会の常識の範囲内でしか考えることができない私には、的確な答えを見いだすことはできなかった。しかも、教員の道を捨てて日雇い労働者として植林に従事したとしても、たいしてお金をもらえるわけではない。かといって、限られた土地で農業をしているだけでは生計を維持できない。彼の話を聞いていると、どうしようもない閉塞感を感じた。自分の修士論文の研究成果を出すために、ただ一方的に調査を手伝ってもらっていることを非常に申し訳なく思った。彼をはじめとした多くの労働者の生き様を見るにつれて、森林再生がもう少し地域社会への経済的貢献・生活水準の向上へとつながり、人びとが少しでも貧困から脱するきっかけを提供できないものだろうかと考え始めるようになった。森林再生のための研究はいうまでもなく重要であるが、森林にその生計を維持している地域の人びとにもっと還元できるような研究や活動に関わりたいという思いが次第に強くなっていった。 
 はじめてのインドネシアにおけるフィールド経験が、熱帯林の問題は自然科学の手法を用いてただ森林を再生すればいいわけではないということ、また森林再生には経済的な貧困や土地の剥奪といった社会問題が内包されていることを教えてくれた。このときの人びととの出会いが、フィールドワーカーとしてその後の人生を歩む大きなきっかけとなった(一部略)。」
『躍動するフィールドワーク−研究と実践をつなぐ』(世界思想社)(2006年)(p.144-146)より
                                                                      
研究における葛藤−熱帯病の恐怖との闘い
東カリマンタンでのフィールド調査の際に発症したマラリアの体験である。我々は、サマリンダから軽飛行機に乗り、タンジュン・セロールという町に着き、そこからカヤン川上流の村を目指した。筆者にとっては、久しぶりの東カリマンタンということもあり心弾んでいた。途中一泊しながら数時間の船旅を終え、歩いて半日の距離にある先住民ダヤク人の村を訪れた。村では、村人と会話を楽しみ、村人に混じって川で漁をした。筆者も、子供時代に習得した特技である投網を披露し、村での楽しいひと時を過ごした。
 フィールドワークも終わり、川を下ってサマリンダに帰る途中にある村に宿泊することになった。なぜかその日の夕方、突然妙なだるさを感じた。最初は暑さと疲れからくる熱だろうと思っていた。早速、携行した解熱剤と抗生物質を飲んだが、熱は一向に下がる気配はなかった。この時点でふとマラリアのことが頭をよぎった。実は筆者は、この数年前、インドネシアのマルク諸島に一人で行き、日本に帰国後マラリアを発症し、1ヶ月間ほどの入院をした経験がある。その時に、医者から「生命に危険があるかもしれない」と言われたことを、退院後に聞かされた。
 今回はカリマンタンの奥地で、信頼できる医者もいない。幸いにも、井上先生は、いざという時のためにマラリアの薬を携行していたので、まずはクロロキンを飲みながら川を下った。薬を飲みながらも、今回のマラリアがクロロキン耐性のマラリアであれば、薬が効かない可能性があるという不安が頭をよぎった。筆者はそのときの言動から、かなりのパニック状態になっていたと、後日、同行していた後輩から聞いた。当時の詳しい様子については、一緒に行った後輩大松美帆さんが、『熱帯林業』(1998, 41: 67-76)に書き残してくれた。その中に登場するH先輩こそ、まさしく私のことである。
 以前発症したマラリアの経験がトラウマとなり、マラリアの恐怖がどんどん増幅し、死の恐怖を実感した。井上先生が東京の専門医に国際電話で連絡を取って指示を仰ぎ、もう1つのマラリア薬であるメフロキンを服用した。それが効き、みごとに熱はひいたのでひとまずほっとした。しかし、それもつかの間、その後薬の副作用が全身を襲った。副作用によって立っていられないほどの強烈なめまいが始まったのである。体調は最悪であったが、一刻も早く日本に近いジャカルタに戻りたいという気持ちだけは強かった。みんなの介護してもらいながら、船で数日間かけて川下へと下った。ようやく空港までたどり着き、サマリンダ行きの飛行機に搭乗することができた。激しいめまいに襲われながら、なんとかジャカルタに戻ることができた。私の命を救うためのチームの見事な連携プレーのおかげで、無事カリマンタンから脱出することができたのである。ジャカルタ到着後は、そのまま病院に搬送され、日本に帰るまでの数日間入院した。帰国後も薬の副作用に悩まされ、完全に回復するのに1か月を要した。井上先生をはじめ、後輩のみなさんには今もって感謝の気持ちでいっぱいである。
 壮絶なマラリアの体験からフィールド研究を続けることに迷いが生じた。フィールド研究をやめようかと本気で悩んだ。しかし、数か月経ってから、自分の人生は、これに賭けるしかないという気持ちがまた湧いてきた。自分の健康管理をしっかり行えば、病気を避けることだってできるはずだと自分に言い聞かせた。フィールドワークは生半可な気持ちのぞんではいけない、精神的にも肉体的にもタフでなければ行うことができない、敷居の高い作業なのだと改めて実感した。
「熱帯林の紛争管理―保護と利用の対立を超えて』(原人舎)(2011年3月)の「あとがき」より
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